月を鍛える さらに考察

占星術的には、月というのは、

もうどうしようもない欲求みたいな、

鍛えようがない的な?

サガとして持ってる性質みたいに捕えられてきた。

先日、マドモアゼル愛先生の月の考察の記事があり、

大変に説得力のある内容であり、

なるほど!膝ポン!という感じだった。

その記事はこちら

月の衝動で生きれば生きるほど、人は本当は苦しくなります。このことを分かっている占星術はあまりありません。月がいかに自身を誤魔化し、いかに自分を守るように見せて破壊し、いかに嘘つきか、、、一度ゆっくり考えてみてください。 (愛先生のブログより)

こうしたことを鑑みると、月を鍛えるのは難しいように感じる。

先日、わたしは、こんなツイートをみた。

子供らが反射的な暴言を吐いた時には、冷静に「もう一度、言って」と繰り返させていた頃がある。あるいは「今、何をした?」「もう一度、やってみて」も。反射的にやってることは意識に残らないから、「もう一度」と再現させる。再現させてから「その行動について」話すことになる。

概ね、ほとんどの言動には「悪気はない」のだ。言動の選択肢が少な過ぎる上に、反射的に行動を起こしていて、「行動と意識が結びついていない」から「記憶にも乗らない」まして「振り返ることはできない」のだな。このタイプは非常に苦しい。自分の行動と周囲の反応の理屈がつかめないから。

反射と反応を分けて考えていた。発作的な制御できていない「反射」と、他の選択肢もあり得るの「反応」と、同じに扱うとこっちの身が保たないと思ったから。「自分は悪くない!」のセリフが、反射としての時と、反応としての時があるのだ。反射の時はパニクってるに近い。話し合いにもならない。

反射的に出た言葉は意識に残らない。パニックの時のうわ言と同じだ。だから「あの時、こう言ったでしょ」には「言ってない」になる。本人的に嘘はついてない。本当に「言った記憶はない」のだ。聞いてた側は「なんで、嘘つくの!?」になる。これを避けるための「もう一度、言って」なのだ。

反射的な言葉の場合、最初の頃は「言えない」んだよ。再現ができないの。意識してないし、覚えてないんだもん。ここでますますパニクるんだねぇ。もう一度言ってに対して、ものすごい抵抗を示すよ。そこでわかるんだ。「ああ、反射なんだなぁ」って。これは「反応」まで持ってかないと、本人、辛いと。

ここからが根比べだね。「こいつは、もう一度言ってを言ってくるやつだ!」と「意識して」頂くまで繰り返すよね。反射的な言動は「選んでない」状態だから、「しまった!こいつはあれやってくるやつだった!」の意識を持つのが第一段階ね。「もう一度、言って」に応えられるようになったらクリア。

反射的に出た言動は「転ぶ時にとっさに出した手」みたいなもので、「どうして、その動き?」の説明がとても難しいのだ。出ちゃうものだ。もう一度って言われるのが辛いのも理解できる。だけどそこ、無意識のまんまだと、自分の言動の一貫性が作れんからな。振り返れないのは蓄積できないってことだ。

もう一度言って?に応えられるようになったら、こちらも繰り返す。そうしてからその言葉が出ちゃった「気持ち」を確認する。そして気持ちに応じた表現の選択肢を増やす。頭キタでもムカついたでも、死ねよりはマシって広い気持ちで「選択肢を増やす」のだ。語彙だけじゃない。殴るより踊れもありだ。

カッとなって噛み付いたりなんかしてた息子には、地団駄ダンスなんてのもやったよ。脱走したり暴力振るったり暴言吐いたりするよりは、むかつくむかつく!ドスドス足踏みならしてダンスの方がずっといい。そっち選べたら、たいしたもんだ。反射ではなく、「怒りとして反応できた」になっているからね。

追加した選択肢を選択できるようになったら、第二段階クリアだね。反射だけではない言動を獲得した!だ。ここら辺からようやく、もう一度!が苦じゃなくなってくる。直後ならいけるようになって、少し「振り返れる」のだな。意識と行動の接続が出来てきてる!って感じになる。

自分の言動をコントロールできた!はものすごく「自信」になるよ。逆に自分に記憶のない自分の行動を責められるのは、とてもとても「苦痛」で「自己肯定感を削ぐ」よ。積み重ねができない苦痛、反射だけだと本人が辛いって思うのは、そこなんだ。第二段階クリアなしで振り返るやるのはキツイと思う。

息子の友人にここ飛ばしたなぁって感じる子がいた。常に、その場しのぎのつじつま合わせで、私に話を合わせてくる。本人としての一貫性に欠けているように感じられて、切なくなるんだ。自分で自分の言動を選んでいる意識がないんだよ。反射的に迎合しているのが判るの。あれは辛いだろうなって思う。

意識と行動の接続が弱いまま、反射的に反発するか迎合するかして、振り返れない。するとどうなるか?言動の一貫性がないように見えるから、周囲はその人の言葉も行動も「真剣に受け止めなくなる」んだよ。当人の感覚は「信じてもらえない」の被害者意識となる。これは本人も周囲も本当に苦しいよね。

どんな暴言吐かれても「もう一度言って」何かやらかしたら「もう一度やってみて」パニクって抵抗しても何度でも「もう一度」やるのは、はい、鬼ですって!!鬼やるのも相当辛いよー!!やるなら早めの方が鬼期間が短くて済むと思うよ?も言っておこう。自分にその傾向があるなら「もう一度」課題だね。

月には反射と反応があるのではないだろうか!

反射としての月は、確かに低次だ。

劣悪だ。

愛先生がいうのは、こうした月だ。

そうした場合、ここで書いてあるように、

「え?それのなにがわるいの?」としか思えない。

悪くはない。全然悪くない。

ただ、意識にきちんと上がってないから、

月のスピードに振り回されているだけなのだ。

この話しは子供相手なので、

子供は確かに覚えてないかもしれない。

大人になると、覚えてない事はないと思う。

大人は、覚えてはいる。

覚えていても、反射的に、習慣的に、言葉を発していて、

そこに意識が乗っていないのだ。

傾聴カウンセリングで、相手の言葉を必ず返していくのは

まさにこの反射を反応にするための行為なのだと思う。

ほとんどの場合、大人といえども、

自分の発した言葉を、理解もせずに話していることが多いのだ。

だから相手を怒らせたり、不快な思いをさせてしまう。爆

また、自分の言ってることが相手に伝わらないのも、

反射で話しているせいだ。

自分の話しを信じてもらえないのも、

反射で話しているせいだ。

マドモアゼル愛先生のいう月の考察は、

まさにこの反射のことを言っているのだと思う。

わたしたちの月は、ほとんど反射で、反応に至ってない。

で、そこで、

わたしは、

この月を反射から反応に変えようではないか!と提案したい!

それが月を鍛えるという意味なのだと思う。

感情のままに怒ったり、イライラしているのは、
ただ、この月の反射に振り回されているだけだ。

月の欲望を欲望のままにはびこらさせているのは、
ただの月の反射に振り回されているにすぎない。

女性が出産して子育てにはいると、
月を鍛えることになるのは、

この「反射」を否応なく、
「反応」に変えなければならない出来事に出くわすからだと思う。

自分の気分や好き嫌いで、一日を送れなくなる。

これが反射から反応への変換なのだ。

子供の命を維持していくのは、
子供の反射に付き合うことであり、

ここで、どうがんばっても人間の反射というものを
客観視することになる。

まぁ、ある意味、自分の反射を赤ちゃんに投影して、
観察するようなものだ。
反射の傾聴カウンセリングみたいなものだ。

赤ちゃんの反射をうまくかわせるようになった頃には、
おそらくお母さんは自分の反射も、かぎりなくかわせるようになるだろう。

ご飯を毎日作るのも、
反射を反応に変えていく作業だ。

自分の行為が料理として出来上がり、
味やその熱量として、フィードバックされる。

まさに傾聴カウンセリングをうけたみたいなものだ。笑

熱があっても、体調わるくても、やる。

自分の反射としては、「やりたくない」。

反射を超えて、やることで、
月は反応に変わっていく。

これがおそらく、
グルジェフの言う、
低次感情と高次感情の違いのようなものだと思う。

反射としての感情ではなく、
反応としての感情。

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