この前、FBにこんな事を書いた。
なんか、昔から、「みんな違ってみんな良い」って言う言葉がなんかあまり好きじゃない。
いや言ってることは良いことなんだってわかる。わかってるよ。左脳ではとってもわかってる。
でも、右脳ちゃんが、「それ、なんか違うよね」って言うんだわ。
「みんな違ってみんな良い」って思わさせられる、共感を強要される感じが嫌なんだと思う。
良いと思うか思わないかなんて、個人の自由じゃない?って思う。
なぜそこに共感を強要されなあかんの?って思うし、
そこにある種のマインドコントロールのように感じる自分がいる。いや、「みんな違ってみんな良い」はの本当の意味は、きっとそういう意味では言ってないこともわかる。それは互いに認め合おうという意味だ!
でも、根底に薄らとある、その共感強要みたいなものと、強烈な自己防衛みたな感覚を嗅ぎ取ってしまい、どうしても好きになれないのだった。
まぁ、だからといって、どうということは何もない。笑
この投稿をしたら、
杉山佐保里さんが、
「みんな違う」のも「みんないい」のも分かりますが、この2つを並列にすることに違和感を感じるのかも知れません。
と、コメントくださった。
今朝起きたときに、この佐保里さんのコメントが、ぼーんと頭に浮かんで(笑)
しばらく考えた。
人って、たぶん、個性的に生きたいという願望が、どこかにある。
人と違う自分。みんなとはなんか違う自分。
たぶん、すっごい高い視点からみたら、たいした違いはないし、
間違いなく「同じ」かもしれないのだけれども(爆)
それでも、アソシエイトした視点で「違い」を感じていたいのだと思う。
「私とあなた、こんなところが違うよね?」
この視点が、世界を広く大きくした。
たぶん、みんないい、は、世界を狭く小さくするのだ。
地球からどんどんはなれていったら、
地球はただの青い点だ。
それは狭く小さな世界。
でも近づいていけば、そこは広く広大な大地。
たぶん、みんな違ってみんないいというのは、
絶対にあり得ない言葉なのだと思う。
アソシエイトした視点とディソシエイトした視点は同時にはありえない。
ここにいながら、宇宙の果てにはいけないのだ。
今ここにいれば、絶対に違いはそこにある。
違いを感じるとき、
それはアソシエイトした世界。
近視眼的に、
みんな違うんだということ。
それを正しく認識したとき、
みんないい、という言葉はでてこない。
良いか悪いかは、ここでは出てこない。
「みんな違う」が本当だ。
そのみんな違うを本当にリスペクトしたら、
みんないい、という言葉は並列にならない。
私は思う。
本当に愛ある人というのは、
多様性を認めよというような、
思考停止な共感性を強要したりしない。
むしろ多様性を捨てて、
自分はこうだと主張し、言いたいことをいう。
愛というのは、本当はそういうものだ。
そうして、そうしたぶつかり合いと、本気度がなければ、
相手を理解することなど、ないのだと思う。
自分がいかに人と違うかを深く認識せよ。
それこそがホンモノの愛へと続く道だ。
愛とはぶつかり合いだ!
そして爆発なのだ。
追記
同性愛の人が、非常に才能があったり、
濃くて深い感覚を持っているのは、
人と違う自分を激しく認識しているからだと思う。
自分は違うと感じる感覚は、
人の才能を開花させる。
デザインやってる知人が言っていた。
ゲイには絶対にかなわない。彼らの才能はすごすぎて、
自分もゲイになりたいくらいだ、と。笑。