セラピーの現場にいると、
親の視点というのと、子供の視点のギャップというのがある。
親は、冗談で言っていたり、楽しく会話したつもりのところを、
子供は傷ついたり、恨みに思ったりするようなことが、
よくある。
「あなたは男の子だったらよかったのにねぇ~」なんて親の一言は、
子供を傷つけようと言っているわけでもなければ、
子供を愛していないわけでもない。
ただ、お話しの一環として、会話を楽しんでいるだけである。
それは、「昨日ディズニーランドに行けたら良かったのにねぇ~」
と同じくらいの質量だ。
もう過ぎてしまった昨日に、ディズニーランドに行くのは無理だし、
こういう会話は、
ありえないことを言って、想像して楽しんでいるだけである。
そうだったら、もしそうだったら、
こうだったかなぁ。。妄想。。。
というお楽しみの一環の会話にすぎない。
あなたが男の子だったらねぇ。もそれと同じだ。
こうしたことを、いちいち恨みに思うのが子供だ。
大人が妄想して楽しんでいるその会話についていけてない。
子供は思う。
なんだよ、否定かよ!
なんだよ、それ否定かよ!
女じゃ、悪かったのかよ!
女で悪かったな!
いやいやいや、そんなこと誰も言ってない。
さらにそのまま、自分の女性性を大否定し、
女らしい服が着れないだとか、
お化粧ができないとか、
それも親のせいのように思っていたりする。
この時、無意識の中で何が行われているかというと、
もともと、自分がどこかで男の子だったらよかったなぁと思う気持ちがあり、
だから親が言った言葉を真にうけ、
親のせいにしながら、自分の女性性を否定したにすぎない。
もし、自分の女性性に自分が否定なり肯定なりのスポットを当ててなければ、
親の言葉はタダのスルーで、記憶にも残っていないはずだ。
記憶に残る時点で、
無意識さんには、そこに何か、何がしかの意図がある。
この記憶を覚えておいて、後で使おうとかいうような意図だ。
後で何に使うか。
それは、後で自分の自信にしたり、
後で自分の言い訳にしたり、するためだ。
あの時、ああいわれたから。
だから、今こうなのだ、という意図だ。
良くも悪くも、子供の記憶は、
近視眼的でありながらも、
そこに強烈なエネルギーと情熱がある。
子供の強烈なエネルギーと情熱を持った視点を、
どこへ持っていくか。
このエネルギーは強烈なので、
この視点をどこに持っていくかで、
あなたの人生はガラリと変わるのである。
だけれども、ここにそれほどまでの強烈なエネルギーがあると実感していない事が多い。
そうだよね。でも、そうなんだ。