世界は自分の潜在意識のホログラムなんですね。
全ての人にとって、それはそうです。
世界は自分が作ってるっていうけど、
自分が意識して作っているわけではなく、
潜在意識が自動で制作している、という感じ。
自動で、です。
この話、よくよく議論されるのは、
では、自然災害はどうなの?っていう話し。
よく聞くのは、
大地震とかもその人が作ったんですか?
酷い話しですよね!!!っていうのを聞きます。
先日、秦由佳さんのノートでは「人は自然災害は作れません」と書いてありました。
確かに私たちは自然災害をコントロールできる能力は普通に身に着けていません。
しかし、
これ、話しの階層が違うんです。
「作っている」と言っている、その階層が違う。
表面的な階層では、人は自然災害は作れないし、人は自然をコントロールできません。
でも、人は、自分の肉体を支配していますよね?
心臓とか自分で作ったとは思えないけれども、所有していますよね。
そして心臓をどう動かすかって、コントロールできる意識はないけれども、
でも実は自分が動かしていますよね?
だって自分の肉体じゃないですか。
あなた以外の人がどうやって動かしているんですか?
自然に?
勝手に?
え、でも、それ自分の肉体ですよね?
あなた以外の誰かが、あなたの心臓を動かしているのですか?
それは違いますよね。。
でも、コントロールできるとは感じませんよね?
でも、それはあなたの肉体であり、所有物であり、
どこか意識の深い深いところで、
自分の意識と連動していることを知っていますよね?
どこかで自分が自動運転していますよね?
あなた以外の誰かが、自動運転しているわけないじゃないですか。
あなたが心臓を動かしているんです。
え、違う?
じゃ、
神が動かしてるんですか?
神ってみたことあるの?
神ってあなたのことでしょう?
これ、
意識には階層があって、
その階層の「どこまでを自分とするか・・の問題」なんです。
自分を、「表面的な自分を自分」と思うのであれば、
自分は何もコントロールはできません。
何一つ、できません。
何一つ、自分でコントロールできるものはありません。
全てはなすがまま。
感情のまま。
浮いたり沈んだりする自分の心や感情に振り回され、
それもコントロールできません。
勝手に沈んだり、勝手に浮上したり、
そういう生き方をヨシとする生き方もあります。
非二元論では、それをヨシとしています。
それが人生。浮いたり沈んだり、コントロールはできないし、
なすがままをヨシとしましょう、というのが非二元論です。
そして、そこに自分はいないんだ、とするのが非二元論です。
でも、、
でも、より深い意識、心臓を心臓たらしめている自分を自分と思うのであれば、
自分はものすごい能力を持っています。
より深い自分に「気がつくこと」ができるのであれば、
自分は全てをコントロールしていた、、、という事実に気がつくことができます。
それが
梵我一如の思想です。
非二元論では、問題を問題としないので、
何も解決もしないし、
解決することを目的としないし、
生きていることに目的なんかないよ、という思想なので、
自分はいないと、思い込むための思想なので、
どこにも行きつかず、人を幸せにしないと思っています。
梵我一如は本当の自分に目覚めるための道です。
わたしたちは本当に、ここにいないのでしょうか。
いるだろ?いるじゃないですか。
そして、自分が自分だと思っている以上の事をしているのが現実ですよね。
本当の現実をよく見てください。
血液を流したり、心臓を動かしたり、
呼吸をしたり、酸素を取り入れたり、
この自分は、毎日ものすごい働きをしていますよね。
そこに目をむけて、その自分がいるんだという現実を
事実として認識したら、
自分には知られざる能力が備わっていることがわかります。
たぶん、私たちは自然とも連動しているだろうと思います。
自動で運営しているので、
コントロールできる気はしません。
潜在意識の奥深くでは繋がっていて、
関連している。
でも、その意識に目覚められる人は数少なく、
目覚められないからといって、
それはないとか、それは言語道断とか、
まったく自分と無関係とかって言い放つことはできません。
そのほうが、ものすごく乱暴だと思うのです。