「誰かを救いたい」と思う人こそが、一番助けを必要としているのは何故か。

たなだ先生の、

「誰かを救いたい」「誰かの力になりたい」と思う人こそ、一番助けを必要としています。

数日このセリフをひっぱりましたが、

今日はこれを解説していきたいと思います。

はい。これなんですが、

まず、この意識がどの季節からくるかを感じてみましょう。

季節には、親と自分の季節、飯と自分の季節、道と自分の季節、世界と自分の季節、

四つの季節がありました。

そして、この、誰かを救いたいという気持ち、どこから来てるでしょうか。

結論からいうと、

この意識は、親と自分の季節から生じています。

子供は親に気に入られるためには、必死で親のために生きたのです。

親に気に入られるため、

親の注目を得るために、

必死によい子を演じたり、勉強したり、

何かで秀でてるところをアピールしたりしてきました。

このとき、私たちは、こうすることで、自分の能力を養っています。

親の注目を得るために頑張ってたこと、親の期待に応えるために頑張ってたこと、

これはのちのちの自分の資質になっていきます。

でも、このとき、「親のために、がんばってたこと」

その頑張ってた「こと」は資質になるのですが、

ちゃんとこのときに親から評価されていないと、

私たちは、評価されることを潜在意識の中で求め続けてしまいます。

どうすれば、評価されるでしょう。

大人になった今、

どうすればあなたは人から良い人で、立派な人間に思われるでしょう。

もう、資質はそんなに伸びません。(爆)

勉強してもそこそこです。(爆)

このとき、

誰かを救うとか、誰かの力になることをすると、

ダイレクトに人の役にたち、感謝されます。

人から評価されやすいのがわかるでしょうか。

子供の頃に、自分が満足するほどの賞賛は親から得られなかったという背景があると、

大人になっても、誰かのためになりたい、誰かの力になりたい、

「そうすれば評価される」 という思いから離れられなくなります。

子供の時、私たちは親からの賞賛を得たかったのです。

その気持ちが満たされてないと、

大人になっても誰かのためになって、誰かを救って、

人からの賞賛されたいと思ってしまいます。

それが

「誰かを救いたい」「誰かの力になりたい」と思う人こそ、一番助けを必要としています。

ということになっていくわけです。

この気持ちは親と自分の季節が

完結してないことを意味しています。

多くの場合、本当にこの世を救ってる人は、誰かを救いたいとは思っていません。

救いたいのではなくて、自分の理想に向かって、理想というイメージがハッキリあって、

そこに向かって行ってるだけなのです。

医師の吉岡秀人さんとかも、理想の医療とはこういうもの、というイメージある。

ガンジーも理想のインドとはこういうものというイメージがある。

この態度は「誰かをすくいたい」というような

漠然としたものではないことがわかるでしょうか。

吉岡さんは「医療」と一体となっていて、ガンジーは「インド」と一体になっている。

そうして、仕事をしているから、結果的に世を救っているのです。

もしあなたが、何かを仕事にするならば、

その分野の何かと一体になったとき、はじめて誰かを救うでしょう。

そうならないうちは、飯と自分の季節にいます。

その分野と一体になってないうちは、「飯と自分の季節」にいます。

この「飯と自分の季節」にいるときは、

しっかりと「自分のために生きていることを自覚」しないとならないです。

この自覚が足りず、「他人のため」、「誰かのため」としてしまうと、

「親と自分の季節」に舞い戻るのです。

はい。ここ大事だからもう一度言います。

飯と自分の季節にいるときは、

しっかりと「自分のため」に生きていることを自覚しないとなりません。

この自覚が足りず、「他人のため」、「誰かのため」に生きてる気持ちになったりすると、

「親と自分の季節」に舞い戻るのです。

誰かの賞賛を得たくてしょうがないという状況に陥ります。

幼稚な意識に戻ってしまうのです。

本当は自分のためにしている行為を、他人のためだと思い込んでしまうと、

ただ一人よがりに自分を理想化し、

仕事や行為を汚します。

そしてその心は、「人からの賞賛を得たいだけ」という幼稚な精神に陥るのです。

しかし、これは、親と自分との季節が終わってないことを意味していますから、

ここで絶望したり、残念に思ったりする必要はありません。

「そうなんだ」としっかりと自覚して、

意識的にワークする必要があります。

それをしないで、見ないようにして、シャッターを下ろしても、

人生は全く前に進んでいきません。

自分が親との季節を完結させていないことは、別に恥ずべきことでも、

隠すようなことでもありません。

大事なことは、

「自覚したときにワークをして、前に進むこと」なのです。

しかし、自覚しようとしないならば、一生、前に進むことはないのです。

本当に誰かのために生きられるのは、道と自分の季節にはいった時です。

その時には、その道に自分の人生を捧げることができます。

その分野に本格的に参入することが道と自分の季節です。

本格的に参入とは、その道に人生を捧げてるかどうかです。

そのとき初めて世のためになる。

ガンジーはインドに人生をささげ、吉岡さんはミャンマーの医療に人生を捧げています。

その分野に、自分の全人生を捧げる。

それが道と自分の季節にはいった証拠です。

でも、これはものすごい状態なんだとわかると思います。

多くの人は飯と自分の季節か、親と自分の季節をやってるのです。

先日、ヨガのユキオ先生が、

「ときどき、この人はヨガの先生にならない方がよかったな、と思う人がいる」

という話しをしていました。

ヨガの先生は、ただヨガを伝える媒体であって、透明な存在であることが大事なのに、

自分がえらくなったように感じてしまう人。

こういう人はヨガの先生にならないほうが、ずっと感じが良かった、というのです。

これは親と自分の季節が完結してないから出てくる障害だと思います。

または、飯と自分の季節にいるのに、

人のためになってるような気になっている勘違いから来るものです。

自分誰かを救う。

自分講座する。

自分演奏する。

私の言葉誰かを救う。

全部間違っています。

それらはただの「我」なのです。

人はあなたの言葉で救われたのでも、

あなたが誰かを救ったのでもありません。

自分はただの透明な媒体である。

この態度ができないうちは、

親と自分の季節を完結させていないし、

飯と自分の季節にいることを自覚していませんのですよ。

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