昔、沖正也が亡くなった時の遺書で「おやじ涅槃でまつ」というのがあった。
あの事件があった時に私は母に「ねぇ、涅槃ってなに?」と聞いた。
すると即答で「喫茶店のことよ」といわれた。
それを聞いて、不思議なことを言って人は死ぬものなんだなと思った。
「ふーん、喫茶店で待ってるのかー」と思ったのだった。
その話しを学校ですると、大笑いされて、
どんな天然一家だよと思われたのだと思うが、
最近、この喫茶店で待ってるってのは、
意外に正しい見解のような気がしてきた。
死後探索をしたことがある人ならばわかるが、
あの世には喫茶店というものがある。
三図の川の所にも、またF27にも喫茶店があるのだ。
うちの母は時にものすごくサイキックである。
例えば人が怪我したりすると、その怪我は何時何分にした怪我だという時がある。
そしてそれは間違いなく当たっているのだ。
しかし、母には論理性と分析性というものが皆無で、
話しをしていても、ほとんど拉致があかない。
論理の矛盾を指摘しても、
自分が感じていることが絶対だという意識から
てこでも動かないのだ。
私はこの全く論理の通じない人に育てられ、
オカシイなという思いをずっと抱きながら大きくなった。
オカシイな。世界はそんな風にはできていない。
そんな思いだ。
今やっている奇跡講座や
この世の中でわりとブームな
思い込みを外すワーク、ブロック外しなども、
もっと論理的にものごとを考えれば、
世界はそんな風にできてないよ、っていうワークのように思う。
でもね、でも、
この世は確かにそんな風にはできていない。
思い込みではできてない。
しかし、
この世はその論理的客観性と、
それと相反する、全くの論理を超えたところと、
その二つを混ぜ合わせて、真実がある。
そう、涅槃は喫茶店なのだ。
そう、涅槃は喫茶店、これはとても限りない真実である。
これは論理を超えたところにしか存在しない真実である。
論理的に客観的に物事をみれれば、
たしかにブロックは外れるし、生きやすい。
でも、もしかすると、
なにか、圧倒的な真実は、
強烈な自己中心的な論理の全く通じない思い込みの中に、
その中に忽然と輝くもののような気がする、
今日は、そんな朝でありました。