昨日の夜は、臨死体験をしたさおりさんと、
その体験の根底をささえるものは何かについて、
熱く語り合った。
さおりさんの体験は目が飛び出るくらいのビックリしたものである。
「へえ、そうか。宇宙ってそんな風にできてたんだ・・すごいな。」
色々話しには聞いてたけど、
本当の体験をした人の言葉のエネルギーや、そこから伝わるリアリティは物凄いものがある。
さおりさんは、
「方程式の解き方をしらないのに、突然すべての答えを知ってしまった」
ような感覚があるという。
いや、私は「そうではない」と言った。
色々な人が、「悟りとは何か」、「覚醒とは何か」ということを語るが、
本当に体験している人は、
下から順番に階段をあがっていって、その体験をしているのではない。
ロバートモンローにしても、その体脱体験は、訓練の結果得られたものではない。
体験は、神の啓示のように、恩寵のように、突然に降ってくるものだ。
そう、そして、訓練や修行と称されるものは、
すべて実は「詭弁」である。
なぜなら、その人だとて、訓練や修行の結果ではない場合がほとんどだからだ。
ただ、水面下で溜まってたものがある。
それは、その人が誠実に生きてきた、その誠実さを支えるエネルギーのようなものがあり、
その誠実さを支えるエネルギーが、
その人に恩寵のように降ってきて、大きな体験を授けるのだ。
これは、私が今までに、
リアルに体験した本物のすごい体験をしている人と話す限り、
必ず絶対にこのエネルギーを有しているのを発見している。
絶対的にこれは真実である。
さおりさんは、バリ島マニアで、バリ島のあらゆるトランス文化について、
マニアックに勉強してきた方である。
その、バリのトランス文化についても、昨日はしげしげと聞いた。
そして、私は、その話しから、
「どうしたら、トランスにはいって、神の啓示がもたらされるか」について、
自分なりの見解を得た。
そのヒントはバリ島がもつ、[村の力」だと思った。
これなしには、誰も故意に何度もトランスに入ることはできない。
さおりさんが、個を超えるトランスパーソナルな体験をしたのは、
自分を捨てた時。
そのとき、巨大な自分、全てを、全てが自分であるという体験をした。
その体験は私達が日常に「自分である」という感覚を保持している以上、
決してたどり着けないものだ。
個を捨てるって、どうしたらできると思うだろうか。
私が、私が、私が、私が、私が、
と思っている以上、
決して大きな体験などやってこない。
覚醒することはない。
これは、あらゆるヒンドゥ教のヨギの誰もが言っている、根本的な思想だが、
思想というより、リアルな実感ある体験なのだと思う。
宇宙体験には、
この根底、「誠実さを支えるエネルギー」「個を捨てる」という体験の
積み重ねがない限りすることができないだろうなと思う。
9月4日に予定している、「地球外意識体と接触する講座」では、
この、「誠実さを支えるエネルギー」とはなにか、
「個を捨てる」とはなにか、
についてお伝えしつつ、それらのワークをしていきたいです。
体感なしに、決して頭では理解できるものではないからです。
個を捨てるのは簡単なことではない。
個を捨てるのにこそ、誠実さを支えるエネルギーが必要になる。
でも、私はこれは修行や訓練ではないし、
でも確実にそのエネルギーをためることによって、
大いなる体験の水面下を支える。
大いなる体験の呼び水になるものは、これしかないのだと、
確信を感じているのでございまする。
追記:誠実さというのは、いい人である、とかとは違う。
いい人である、というのは、むしろ見栄であり、自分を守る鎧だ。
その見栄と鎧を捨てる誠実さが必要なのだ。