昨日もいろんな気づきありました。
すっごく大事なのは、
「事実」なんてものはないんだなってこと。爆
私たちは時にものすごく、事実にこだわります。
「事実はどれだ。どこにあるんだ」とか、
「本当はどうだったの?」とか。
でも、この世に「本当は」とか「事実は」とか
ってあまり意味ないというか、
どれが本当って無いのかもな、って思います。
たとえば3時間という時間を与えられて、
その間、一生懸命勉強した、とか
一生懸命働いたとか、
ぼんやりとすごしたとか、
テレビをみてましたとか、
いろんな過ごし方があると思うのだけれども、
じゃぁ、あなたは何をしてその3時間を過ごしたの?って問われた時、
テレビを見てた人も「勉強していました」と言えば、
そのテレビを見てた時間は「勉強してた時間」になるのだと思います。笑
勉強してた人も「テレビを見ていました」と言えば、
その勉強してた時間は「テレビを見ていた時間」になる。
いやいや、勉強とテレビは違うでしょ?と言われても、
本人がそう認識すれば、勉強はテレビを見た時間になる。
テレビは勉強をした時間になる。
そうして、私たちの脳みそでは、それはテレビにも勉強にもなるのだと思います。
すると事実はなに?って言われても、
事実なんてものはどこにもないのだと思いませんか?
(ま、ちょっと飛躍しすぎな意見かもですけどね。)
私は昨日、ものすごく楽になった案件がありました。
それは母に関することなのですが、
私は母のことを、ずっと、
「なんか、自分勝手で、人の話も聞かない、1人で悲劇の中に入っちゃってる人」
みたいな認識をしていました。
でも、人ってとっても狡猾です。
自分にめっちゃ甘いんです。
なんでお母さんをそんな風に落としたいか。
自分が母より勝ってると思いたいからです。
勝ってると思いたいから、
過去の記憶を、すり替えているのです。
テレビを勉強にすり替えるかのように。
あなたテレビみてたよね?って言われても
人の潜在意識は狡猾なので「いや勉強してたんです!」って言いたい。
すると簡単に過去を書き換えてしまいます。
(だって事実なんてないからね。)
同じように「お母さんより勝りたい」と思っていると、
人は簡単にお母さんを馬鹿にするような材料をこしらえるんです。
そういう事実があたかもあったかのように過去を作ってしまうのです。
そうして「あの人は酷い人だった」と言いたいのです。
そう思うことにメリットがあると思ったわけです。
メリットのために、酷い過去を作っていたのです。
私は母より優れていると思うためには、
ヒドイ過去を作って、
母を馬鹿にする、母との過去の記憶を全部悪いものにする、
母のせいで、母の身勝手さで、母の態度で、
私はこうなったといいたいのです。
でも、よぉぉぉぉぉおおおおおく考えてください。
それって間違いなく、自分がそういう過去を作ってるだけなんですよ。
事実というのは存在しないのです。
飛躍してるように感じるかもしれませんが、事実というのは無いんです。
自分が作ってることが事実なんですね。
親が子供にしてくれたことって、
絶大的にあるんだということ。
どれだけ子育てが大変かは、自分が子供を持てばわかると思いますが、
その絶大的な仕事量に対し、
人は簡単にツバを吐いてしまう。
そんなことをしていて、どうやって愛ある生活ができるでしょうか。
本当に人とわかりあえたり、分かち合えたりするでしょうか。
できるわけがない、って思いました。
私は、この事を認めると、
親孝行しなければいけないって思っていたんです。笑
認めてしまったら、
これから私は親に色んなことをしてあげなければいけないような
そんな法律を自分で自分につくっていて、
だからずっと、認められなかった。
で、昨日はその自分が作ってた法律に気が付いて、
法改正しました。爆
親に感謝することと、親に奉仕することは別。
感謝はいっぱいすればいい。
感謝したら奉仕しなきゃいけないと思ってたから、
感謝できなかった。
そんな法律はどこにもないんだよって思いました。
感謝したからって、わざわざ親になんかしないといけないという事は無いんです。笑
わざわざ親に何かするというのは、
実は感謝とは別の「良い子供と思われたい」というという、
褒められたいだけの行動であって、
それは感謝と別ものだということ。
そうではなくて、
純粋に親がしてくれたことに感謝をする。
そこが欠落すると、
本当に、世界中にツバを吐いてしまうのだと思いました。