犠牲とはなにか。そして大きな円との結合

恒星の話なのですが、
シリウスというものを調べていくと、
『シリウスがかかわると枠がこわれて、
それは本人からすると犠牲体験になる。
しかし、犠牲になった結果、聖なるものとして特別視される』
という記述を見た。
犠牲とは何か。
枠がこわれるとは何か。
例えば、男女が結婚すると、
そこには大きな犠牲がある。
自分の円を半分に割って、相手と一つの円を作り上げねばらない。
その自分を半分にする段階は大きな犠牲が伴う。
痛く辛く、憂うつな作業だ。
それを受け入れず、その痛い段階でとどまっている夫婦というのも沢山みる。
しかし、一度、自分を半分にすることを受け入れたならば、
その時には大きな力を得る。
一人では決して作ることのできなかった円を作ることができる。
それはより強固で、力強い。
人はもともと個ではなく、
だが、肉体に入ったと同時に個で存在することを強いられる。
そして個でないということを理解しにくい。
インナーチャイルドワークでは、
共依存的な自我ではなく、
根源的自我に目覚めよとワークする。
それは、自分を割って他人と一つになる結婚という作業とは、
矛盾するかのように思うかもしれないが、
私の中では全く矛盾は感じない。
共依存的自我というのは、
実は非常に自分を失っているようでいて、
決して自分を割ってはいない。
自分を割っているのではなく、
自分がわからなくなっている状態だ。
自分を割るというのは、自分を知らねば決して割ることはできない。
結婚関係において、
一つの円を作ることが出来ないのは、
この自分を知らないがゆえに、自分を割ることができないから、
他人と一つの円を作ることが不可能になっていると言える。
自分を知った時に、
初めて自分で自分を割ることができ、
その時に大きな円へと結合することができる。
その割れた部分が大きな円へとの融合への接触点なのだ。
シリウスの意味として、
「枠が壊れて、犠牲体験となり、それが聖なる者としての扱いとされる」
というのは、枠が壊れる事によって、
より大きな円との接触が可能になるという事なのだと思う。
若者が少年に自分を殺して土にうめよと言い、
少年が言われた通りにしたら、そこからトウモロコシが生えてきて、
少年が生活の糧を得たというような神話は、
一人の若者が一人でさえ、大きな大地のエネルギーを引き出す、
大きな円になることができるという象徴のように思う。
しかし、こうしたことも、
夫婦関係においても、
根源的自我というものに目覚めない限り、
自分を割ることは決してできず、
迷走してしまう。
まずは自分を知らねば、そこから人は一歩も進めない。
こうしたことは恒星のエネルギー全体に言える事なのだと思う。
恒星エネルギーを引き込むには、
どこかで絶対に自分を割らねばならない。
その作業なしに、恒星と共鳴することはありえない。
それには根源的自我にたどりついてないとできない。
自分をしっかり確立している必要がある。
それがなく、自分を割ることは決してできないからだ。
他人と共依存しているうちはムリなのだ。
内なる声と一体になることを体現していないとムリなのだ。
正しく強くいきていなければ、銀河と対話することは難しい。

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