魂の希求に従って生きること

おはようございまーす。

なんか、最近、生きてる次元、みたいなものを感じます。

生きてる次元ってあるんだなって。

それは人と比べて、上とか下とかではなくて、

自分の中では上とか下とか、なんだと思います。

よく自分のために生きると、自然と人のためにもなって、、
という話がありますよね。

でも、このときの自分のために生きるって、
自分の魂の底から湧き出るような欲求に
従って生きるということであって、

「魂の底から湧き出る」

その「魂」っていうのは、次元の違う自分なんだと思うのです。

このときに言ってる「自分のため」は
普通とは次元が違う。

魂からわき出るような希求には、
おそらく、どうがんばっても、
他人のためという視点も入るんじゃないかなとか思います。

魂の希求に従うというのは、
やんごとなき流れに身をゆだねる事でもあると思います。

なぜなら自分だけで生きる感じではないからです。

これには、他人の要求に応えることも含まれていると思います。

なぜなら「魂」は、それほど個人的なものではないからです。

変に聞えるこかもしれませんが、

人に求められることがあってこそ、
それは本当の「魂の希求」であり、
使命であるのではないかと思うのです。
もしそれが使命でないならば、魂からの希求でないならば、

人から求められることもないのだと思います。
でも、人に求められることが本来の魂のあるべき姿でもないのです。

とても矛盾しているように感じるかと思うのですが、
高い次元からみれば、なにも矛盾していないんだと思います。

魂の希求と言うときに、
それにどうしても他人が含まれてしまうのが、
本当の魂の希求であって、

魂の希求に従うということは、
他人の期待に応えることも含まれていて、

自分の希求でありながら、他人の希求でもあることの中に、
本来の自分の魂の仕事があるのではないかなと思います。

自分がいくら、これがやりたいから!と言っても、
それが他人のためになっていないならば、
それは自分のためにもなっていない、というのかな。

魂のためにはなってない、っていうのかな。

だから、人の期待に応えよ!というのとはまた違うのです。

自分の期待でもありながら、他人の期待でもある、

その最小公倍数みたいなところが、

本当の魂にたどり着く点なのではないかなという。

次元の違う希求、
魂の希求にたどり着くための狭き門みたいなものかな?と

思ったりするのです。

で、そこにたどり着いてしまうと、
いろんな事が、
自然に流れ出します。

本当に自然に流れていくのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。