先日、人生には季節があることを書いた。
飯と自分の季節は、自分の実力を養う時期である。
この季節にきちんと入るには親と自分の季節を終えていた方が良いけれども、
中には終えることができずに、飯と自分の季節を同時に行う人もいるだろう。
しかし、親と自分の季節は終えれるものなら、終えたほうがいい。
でないと、どんなに飯を食っても、
だらだらとエネルギーが漏れていく。無意識ちゃんにエネルギーが溜まらない。
どんなに飯を食らっても、
親がいないと生存できないという無意識の設定を超えられないからだ。
なので、物理的にでいいので、親から自立し、自活し、援助を断り、
自分の力で生きることをするといいだろう。
そして、飯と自分の季節をたんまりと体験して自分のエネルギーとパワーを養う必要がある。
この飯のエネルギーとパワーがたまると、自然と道と自分の季節に突入する。
これは、むこうからぐいぐいやってくるのだ。
子供を数人育てるという行為は、
まぎれもなくこの道と自分の季節だと思う。
道と自分の季節は、他者理解、他者奉仕、世界に自分の持てるパワーを提供していく時代だ。
子育てはまぎれもなくそういう季節だ。
しかし、子供は複数いないと、なかなかこの道に入りにくい。
なぜなら、子供が一人だと、親のパワーが強すぎる。
子供が一人なら親がねじ伏せることが可能だ。
子供のをねじ伏せて、自分のルールに強いているうちは、それは他者奉仕といわない。
自己満足だ。
でも、子供は複数いると、親は本当の意味での他者奉仕を強いられる。
親のルールをぶちこわすほどの子供の数があって、
はじめて道と自分の季節に入るのだ。
この道と自分の季節は、飯の季節でしっかり飯を食い身体を作ってないと、
この季節には入りたくてもはじかれる。挫折する。頓挫する。
子育てが苦しかったりするのは、飯の季節でのボディがしっかりしてないことにも起因する。
でも否応なく、道の季節に入り込んだ人は、苦しみながらも、
見えないところで飯を食いつつ頑張らねばならない。
仕事の場合でいうならば、
この道と自分の季節は、
自分の仕事が他者への貢献になる時代なので、
それは自己満足ではなく、
本当の意味で人々の役にたち貢献することが可能な時期だ。
しかし、飯をしっかり食ってないと、
なかなかそれはできない。
自分にありあまるエネルギーがないで、
他人にエネルギーをあげることはできないのだ。
そして、
まだまだ、自分の肉にしようというエネルギーが強いので、
たとえばセラピーなどしても、クライエントが飯と化してしまう。
そんなセラピストにセラピーしてもらうと、うっかりセラピストに喰われてしまう。
だいたいにおいて、セラピーをうけてセラピストに嫌な気分にさせられた場合は、
ほぼほぼそのセラピストはまだ飯と自分の季節か、親と自分の季節にいる。
これは子育てしてても全く同じだ。
飯と自分の季節をやりきってないと子供のエネルギーを親が食う。
道と自分の季節を歩いている人は
そこにたどり着くまでに、しっかり飯を食う能力を養っているので、
他人のエネルギーを食い散らかしたりしない。
それには、わからないことはわからないままにしないし、
自分が自分でいること、弱い自分や嫉妬する自分を隠したりしない。
それをそのまま表現できるからこそ、他人のエネルギーを侵食しないのだ。
それができて、はじめて他人への理解力が生まれる。
これを進んでいくと、世界と自分の季節に入る。
これは高次5次元の視点を持つ季節だ。
この高次5次元は道と自分の季節の半ばでも必要になる。
これがないと、道と自分の季節がぐいぐいせまってやってきても、
道の季節からはじかれて飯の季節に引き戻されたりする。
ここまで来るには、ひたすら経験が物を言う。
前世の体験も全部引っ張りだして使うといい。
そして、この人生で、できそうな経験はできるだけしたほうがいい。
できそうな経験。
たとえば結婚とか、出産とかができるチャンスがあればした方が良い。
経験できそうなことは何でもしたほうがいい。
子供が産めるチャンスがある人は、是非産もう。
子供産んでたら、仕事が・・・とかいう心配いらないし、
そんなことしてたら、人生全体が向上しない。
結局は飯と自分の季節から抜け出せず、
道の季節が迫ってこないことになる。
道の季節は迫ってきたら、後は乗るだけだから、
その乗ったときに、経験が足りないと、結局引き戻される。
だから出産できる人は、出産しよう。
経験が足りないと、
年をとってから、高次5次元の視点も養えず、
また世界と自分の季節にも入りにくくなるからだ。
人生は、いつでも「今」を考えるのではなく、
人生の全体を見渡すといい。
「今、ここ」の視点では、成長できないことがあるのだ。
出産は年齢制限があるけれども、結婚には年齢制限ない。
なので、可能ならば結婚にはチャレンジして欲しいとおもう。
死んだとき、「ああよかった、経験しておいて」って思うだろう。
その、「経験しておいてよかった」こそが人生の宝なのだ。