人間には季節がある。自分がどの季節を生きているかはとても重要なことだ。

私は最近、人間には季節があると感じる。

ここ数日、正確にいうならば、この前の満月後に、
私の中に忽然と湧いてきた思想がある。

それが、魂の季節という思想だ。

この思想がどこからやってきたのかは良くわからない。

でもわたしが、ここ数日で体験した中で、
季節ごとの世界をまざまざと見せられた結果、
これをまとめなさいと何者かに言われた気になって、
今日はそれに書いてみたいと思う。

魂の季節というのは、
進化に関する季節なのだが、
どの季節にも、そこでしか学べないことがあり、
自分がどの季節にいても、それが悪いとか良いとかではない。

良いとか悪いとか感じて、不必要な劣等感や優越感を感じたりする必要はない。

まずは自分がどの季節を生きてるかを把握することが大切だ。

そして、余計な背伸びをせず、じっくりと自分を育てる気持ちになることが
求められている。

季節のはじめは「親と自分の季節」だ。

まず、我々には「親と自分の季節」がある。
子供の頃は必ずこの季節にいる。
しかし、子供だけがこの季節にいるわけではない。

親と自分の季節は、親が自分を養い、世話をし、経済的援助をし、
そして自分は親の価値観に支配されている季節。

多くは自立し、親からの経済的援助や保護から抜け出し、
心理的にも親から脱出するのだが、
親と自分の季節で一生を終える人もいる。

それが悪いとかではない。
そこにテーマがある人はこれで一生を終えるだろう。

親と自分の季節にも、沢山の味わいがある。

ここにはここでしか感じられない、情緒と深みがある。

なので、じっくり味わうことが大切だし、

ここのテーマだけで一生を終えても全然それは悪いことではないし、
ここをテーマしたセラピーやカウンセリングは多数ある。

もし、あなたにとって、
親のいう事が絶対に正しかったり、
親のいう事が絶対に間違ってたりするならば、
それは、あなたが「親と自分の季節」に生きている証でもある。

親と自分の季節にいるかどうかは、
普通に外的な事から理解することができる。

親に物理的援助、金銭的援助、精神的援助、などの保護を受けている場合は
「親と自分の季節」にいると見ていいだろう。

この季節にいると、経典などは理解しにくい。
もし今世でもう少し先の季節を体験したいと望むのであれば、

親の援助を断ち、自分で生きるように試みてほしい。

「親と自分の季節」を終えると「飯と自分の季節」に入る。

「飯と自分の季節」だ。笑

この季節にいる人は、あらゆることを自分と飯の視点で見る。
他人はいるけれども、他人が自分の飯になるかどうかの視点が外せない。

自分の利益になるかならないか。限りなく無意識にその視点から世界を見ている。

飯と自分の季節にいる人は、他人のためには生きられない。
他人の利益になるようにも生きられない。
自分のサバイバルがかかっているからだ。
他人を助けることは、自分のサバイバルに関わるので、
極力避けたほうが良い。
たとえ、他人のためにしているように見えることをしていたとしても、
ほぼ自分のためなので、それは自覚していたほうがいい。

自分がこの世でいかに飯にありつくか。これが重要なポイントなのだ。
人様にあげていたら、自分の分が無くなってしまう。そういう季節を生きている。

だから限りなく自分のために生きるのだ。

これが「飯と自分」の季節だ。
この季節は、多くの人にとっても長い季節だし、
沢山の人がこの季節を生きている。
決して悪い事ではない。必要な事だ。自分のために生きるが、世界の基本だからだ。

これがしっかりできないと、決して次の世界には入れないし、入ってはいけない。

この季節を充分に体験しないまま、次の季節に突入しようものならば、
自己は分解し、分裂し、大切な自分を失ってしまう。

自分をしっかり養うためには、この飯と自分の季節は重要な季節となる。

飯と自分の季節を終えた人は、「道と自分の季節」にはいる。

自分の中に初めて賢者の思想や価値観が、本格的に自分の中に入ってくる時代だ。

この季節にはいって、初めて人は本に書かれている意味や、
過去の賢人の話しを初めてはっきりと理解することができる。
これは「飯と自分」の季節にいるときは理解することが出来なかったはずだ。

飯と自分の季節にいたときは、わかったような気持ちになるだけで、
実際は何一つわからない。
まして、「親と自分の季節」にいる場合は、経典の理解は完全に無理だろう。

しかし、残念に思ったり、屈辱感を感じたりする必要はない。
たんに、春から夏に季節が変わるように、そういう季節だと理解しないとならない。

純粋に、子供のように素直な気持ちで、そうなんだと理解するといい。
それが一番いいのだ。

もし、あなたが、まだ「親と自分の季節」にいて、
親との確執が継続している場合、
あなたが、成人式も済んでいる年齢ならば、
その終結を望んだほうが良いだろう。
それは神に祈るといい。
神の恩寵なしに事は進まないからだ。

親との確執や癒着が継続しているかどうかというのは、
普通に外的な事から理解することができる。

親に物理的援助、金銭的援助、精神的援助、などの保護を受けている場合は
「親と自分の季節」にいると見ていいだろう。

この季節にいると、経典などは理解しにくい。
もし今世でもう少し先の季節を体験したいと望むのであれば、

親の援助を断ち、自分で生きるように試みてほしい。

すると驚くほど世界が変わって見えるはずだ。

人の言葉や、交わされる会話も、
今までの印象とはまるで違って感じるだろう。
あなたはその時、世界はもっと美しかったことに気が付くはずだ。
ぜひ、試してほしい。

そうして、「飯と自分の季節」にはいり、そこを十分に堪能すると、

「道と自分の季節」にはいる。

道と自分の季節は、自分が飯と自分からすこしずつ離れて、
この世には、飯と自分ではない世界があることに気が付くことがまず最初の一歩だ。

この世には飯と自分だけではない世界がある、、らしい。ここに気が付く。

飯と自分の季節にいる場合は、
あなたの語ることが、他者の気づきになることはない。

何を語っても、たんに自分の説明書にすぎず、
それが他者貢献に繋がることがまずない。

なので、たとえネットやSNSでアピールせよといわれて、
一生懸命記事を書いたとしても、
飯と自分の季節にいる場合は、
それが、なにか人に訴えるものにならないのだ。

読者が増えないし、なにか伝わるものが無い感じにしかならない。
この場合は、しっかり飯を食わないといけないのだ。

まだあなたは飯と自分の季節にいると感じたほうが良いし、
そのことに劣等感など抱いてはいけない。

じっくりと飯をいかに食うかを考えることが、一番の成長につながる。
飯を食わずに、他者へアピールしようなどと思ってはいけない。

しかし、しっかり飯を食い、飯と自分の季節を終えると、

そうすると、向こうから、
あなたに向けて「道と自分の季節」がぐいぐい迫ってくる。

この時は向こうからぐいぐいくる。
他者貢献、他者理解、他者への奉仕、
否応なく避けられず、迫ってくる。

これは飯を食い終わった人間に、迫ってくる季節なのだ。

この時になって、初めて、いろんな経典が意味することが理解できるようになる。
そして、日常のいろんな出来事が、ひたすら啓示になってくる。
気づきの連続であり、そして、それが他者貢献へと直結し、

全てが自分を通して、表現される、そんな世界に突入する。

道と自分の季節が終わると、人は「世界と自分」の季節に入る。

この時は、自分はすっかり世界なのだ。

昨日は、この魂の季節を書いてる途中で、
他からの一見低俗と思える情報も入ってきた。笑
意味不明な他者のコキおろし、自分が一番というマウンティング。
こうした類は「飯と自分の季節」にいるときにはとても必要な出来事となる。
こうした出来事が「飯」になるからだ。

飯と自分の季節にいる人は、こうした場面を見る事も必要だし、
中にはいってファイティングしたりすることも必要だ。

楽しむといい。

しかし、もし、本当に賢者の言葉を理解したいと思うならば、
そこから抜け出て、真理はなにかと問うがいい。

一人になって、考えるがいい。
一人になれることができたとき、

あなたにはじめて賢者は語りかけてくるだろう。

そのとき、はじめて、「道と自分の季節」にはいることができる。

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