私たちは細分化された感覚を持つ。
それは例えば、見るとか、話すとか、気持ちとか、
運動するとか、 知性とか。
そうしたものを全部合わせた意識にたどり着くのは結構難しい。
例えばピアノで、まともな演奏をしようと思ったら、
ピアノを弾くという運動をしながら、自分の鳴らす音を聴き、
自分の音を聴きながら、全体を見据える、コントロールする。
これだけでも、かなり高度だ。
先日の講座で、変性意識に入り、
それぞれの霊的なガイドに、みなさんからの質問をするという場面で、
「どうしたら集中力を維持できますか?」というようなものがあった。
そうしたら、参加者さんが、
「その質問をしたと同時に、映像が白と黒に分かれたんです。」 という。
とても象徴的だと思った。
集中というのは、何かのひとつの感覚に入り込むことなので、
ある種、二極化しないとならない。
Aをやるなら、Bの感覚は置き去りにしないとならない。
自分を半分使って、半分は向こうに追いやらないとならない。
統合化するというのは、その二つに割る感覚をひとつにするので、
この世でいうような集中、没入とは違う感覚にならないといけないのかもしれない。
しかし、それは「人間の身体」というレベルで考えた時のことなので、
その感覚を超えた集中というのがあるのではないかと思う。
たぶん、人は本当に何かに集中していくと、どこかで反転するのだ。
最初は二極化された分割された、割れた何かに入り込み、
そしてそこに深く入った時に、どこかで反転する。
全体に向かう極点みたいなものがあるはずだ。
たとえば、ピアノの演奏という事を考えた時に、
曲の解釈をしっかりし、全ての音色の作りこみを終えて、
それにふさわしい指のコントロール と技術をマスターしたうえで、
自分の指や身体の使い方と、そして鳴らしている音の
全体を見渡しながら、 ひとつの曲として完成させたとき、
それは自分の水星的知性も、金星的感性も、土星的厳しさも、火星的闘志も、
天王星的斬新さも、全てが織り交ざった形で完成する。
つまり、人は何かに集中し、そこに没入した先に、
完全な統合というものを見出すと言える。
ピアノを弾く事じたいは、金星的な感覚の喜びのようなところの追及だったかもしれないが、
いつしか、それは、統合へと向かう。
私たちがこれほどまでに分割し、
魂が割れて、沢山の自分を作っているのは、
そうした意味があるのではないだろうか。
世界がこれほどまでに多様化するのは、
そうした意味があるのではないだろうか。
割ったその先に、どこかに分極点がある。
反転するところがある。
その反転するポイントが見たい。
それこそが、この世が存在する意義なのかもしれないし、
神の計画そのものなのかもしれない。