あ、さて-、その清水先生のワークショップの続きなのだが、
わたしの脳内には何かドラマチック倍増兵器のようなものが搭載されていて、
とかくあらゆる事を映画以上のドラマチックさを感じがちなのだ。
これは、わたしの脳内設定である。
それはたとえば、最近は蚊に刺されても、
その蚊の姿にさえドラマをつくってしまうという風だ。
先日は夜中にふと右手がかゆくてかゆくて目が覚めた。
右手ばかり蚊にさされたのだ。
その時、右手はしびれていた。右手を頭の下に敷いていたからだ。
血の巡りが悪かっただろう。
その右手を蚊は容赦なく攻撃してきたのだ。
もし、このしびれた右手に蚊の攻撃がなければ、手はもっとしびれて、
もしかすると血栓さえつくったかもしれないぢゃないかと思うのだ。
蚊は私のそのしびれた手を攻撃し、手がヤバいぞと教えてくれているのだ。
濁った血を攻撃してくる蚊に私はどれだけ命びろいされているかと思うと、
集中攻撃してくる蚊の姿に、神の恩寵のような、
神々しさを感じ入ってしまう。蚊の叡智にひれ伏すのだった。
わたしの現実は、
万事がそのような脳内ドラマチック倍増兵器によってつくられている。
で、
ワークショップの続きなのだが、
どんな体験も、自分がいかにそれをドラマチックに感じ入るかによって、
同じ体験は雲泥の差を産むのではないかと思うのだ。
あらゆることは解釈であり、設定というフィルターを通す。
「気づき」という感覚さえ、
「気づき」の瞬間さえ、
ドラマをドラマと感じ入る力、
「ああそうか」と思える設定なしに、
絶対に「きづき」は降りてこない。
「気づき」さえ設定である。
「気づき」があるという設定なしに、「気づき」はないのだ。
で、ワークショップの続きなのだが、
たぶん、みんな体験そのものは似たようなもののはずだと思う。
体験は同じなのに、その解釈と設定が違うだけなのだ。
つまり、体験記といっても、実はその真実は体験記ではなく、
解釈記と設定記ということになる。本当の意味でそれは体験記ではないのだぞよ。
で、ワークショップの続きなのだが、
とてもここまでうんちくを述べた後に書く気がしなくなった。
拙者は寝る事にする。