わたしは非二元ではなく、一元論といいたい。

10ヶ月くらい前、

私がセントラルサンに入った瞑想をしたときに、

「すべては目の細胞だ」といわれたのですね。

へ?目の細胞っすか・・みたいな感じで。笑

その時は、がらーんと、

世界が崩れるような感覚がありました。

私達は星とか思っていますが、

それは単に自分の目の細胞に過ぎないんです。

まじかよ、と思いましたし、

なんのロマンチックさもないその解答に、

唖然といたしました。

目がなければ、、というか、見るという知覚がなければ、

というか、、、見るという行為をしなければ、

私達はこの世界に参戦しない。

この世界はバーチャルリアリティだという物理学の証明がありましたよね?

つまり、もし、このバーチャルから脱して、

その上のソースコードの世界に入ろうと思ったら、

まず、「わたし」という感覚を脱しないとならないわけです。

私達が感じている「わたし」という感覚は、

実はバーチャルの世界に参戦するためのプログラムの一環でしかないからです。

死ぬときは、チャンスです。

肉体を失うときはチャンスだと思う。

でも、

もし、死んでも「わたし」という感覚を持ち続けたら、

まちがいなく、プログラムから抜け出ることはできません。

死んだ後も、そのバーチャルプログラムの世界は待ってるのです。

プログラムからぬけでれないということは、

死んだ後の意識の世界でも、「わたし」という感覚の続きを体験し、

見たり聞いたり、触ったり、味わったりし続けることになります。

それは、バーチャルでしかないんです。

わたしという感覚を持ち続けるならば、

その感覚を持ち続けて探索するならば、

シリウスにも生物がいるし、

アンタレスにも生き物がいるし、

それらはバーチャルのプログラムの延長でしかないのです。

「わたし」というプログラムを持つ限り、

何万光年先に行こうが、同じプログラムがただ発動するだけなのです。

しかし、

世界にはその上のソースコードの世界がある。

これは間違いなくある。

それは「わたし」という感覚を脱したときに、

はじめて体感できる。

そうすると、ここまでくると、

すべてはやっぱり、ウパニシャッドを制していかないと、、、

っていう、振り出しに戻る感がすごいです。爆

インドのヨギは、真理を素手でわしづかみしている。

ただ、その修行というプログラムにおちいると、

やっぱり、わたしの目的にはたどりつかない気がするんですね。

そして、いわゆる、西洋人が推奨する非二元という思想には近づきたくない。

ゆとりと幅が少ない気がするから。

ああいう風になってはいけないって、わたしは感じるのです。

非二元という言葉自体が否定的で苦しい。

わたしは、

非二元ではなく、一元論と言いたい。

そして、もっとゆとりと幅をもって、

なんでもいいかーという感覚をもって、

一元論だしねーという余裕をもって、

いろいろ苦しくてもふつーよーと余裕をぶっこいて、

そうして「わたし」というプログラムを楽しく脱却する方法が欲しい。笑。

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