フランクル著の「夜と霧」にトリックという概念がでてくる。
それは未来に希望を設定すると、
その希望を希望として抱けているうちは良いのだが、
絶対に叶わないかもしれないと思うような出来事が起きた瞬間に、
その希望そのものが同じ圧力で絶望と化し、人の精神を壊す。
このことをフランクルは「トリック」と呼んだ。
フランクル自身はアウシュビッツを出て、
この体験を大舞台で講演するのを夢見て頑張っていた。
この未来を夢見る方法は一時的には有効であるとフランクルは言う。
「しかし一時的なのだ」と彼はいう。
その証拠に、クリスマスから新年までの間のアウシュビッツでの死亡者は激増したのだそう。
それは、「クリスマスには家に帰れる」と思っていた人が、
クリスマスを過ぎても帰れないことがわかった時に、
その期待は絶望に変わったのだそう。
この体験を通して、フランクルは考え方を転換した。
「トリック」では救われない。。
彼は、「苦しくともその苦しみを体験することに、
それ自体に意味があるのだと思う事こそが、
一番大きな心の支えになった」と彼は言う。
私たちは、人生は私にどんな喜びを与えてくれるだろうか、
どんな体験を与えてくれるだろうかなどと、期待しがちだ。
しかしフランクルはそうした、受動的な生き方では救われることはないという。
それは「トリック」であり、「願って待つ」生き方だ。
そこには実は救いはない。
ではどこに救いがあるのか。
私たちはどう生きるといいのだろうか。
フランクルは、
「人生があなたに何かをしてくれるのではない。
人生こそがあなたに期待しているのだ」とフランクルはいう。
「人生こそがあなたに期待をしているのだ」
その期待に応えられるのは自分しかいないのだ。
行動するのは自分であり、希望を獲得するのは自分なのだ。
すばらしい。。
しかし私はここから、さらに考えた。
ここ最近の、「引き寄せ」の勘違いは、
このトリックみたいな一時しのぎの希望みたいなものを
「引き寄せ」と思っているのかもしれない。
それは勘違いです。
これは、このフランクルのいう、ただ待っているだけ、
人生が自分に何か良いことをしてくれるのではないかという期待をして待つ
という体制と同じであり、これは人を破壊するように見える。
しかし、私は、ここにさらなる【トリック】を感じるのだ。
「クリスマスまでに帰宅できるに違いない」と思い、
頑張っていた人にとっては
確かに、クリスマスを過ぎた時に、
その希望は絶望に変わるかもしれないが、
フランクル自身は
「この体験が終わったら、この体験を大舞台で大聴衆の前で講演するのだ」
と考えていた。
フランクル自身は、その希望を叶えている。
彼は、それをトリックと言っていたが、
結局はその希望を叶えているではないか。
彼は希望を引き寄せ、
この体験から、「夜と霧」という名著を生みだし、
その名を世界中にとどろかせた。
まさに大舞台に立ち、大聴衆を手にしたのだ。
引き寄せには、正しい願いの仕方というのがあるのだと思う。
「クリスマスには帰れる」という願いと、
「この体験を大舞台で講演するのだ。」という願いの差は何だろう。
それは今のその状況を、肯定するかしないかではないだろうか。
「大舞台で講演する」には、今のこの体験を肯定するしかない。
どんなに辛くとも、この体験を通してしか手に入れられない成功なのだ。
しかし「クリスマスには帰れる」は、今の体験をただ否定しているのだ。
フランクルはトリック(安易な幸福的未来像)では救われないというが、
私は、「クリスマスに帰れる」という希望は、安易な幸福的未来像ではなく、
現在全否定の希求であって、
その本質的な現在の否定感が
その人の存在を否定してしまったのだと思う。
何か願いを立てるならば、
今ある、この状況を否定してはならない。
この状況があるからこそ、手に入れられる未来を創造する。
これが、正しい願いの立て方ではないだろうか。