世界の中心で自分の名まえを呼ぼうではないか!

今日はセルアイ講座です!ご参加のみなさまよろしくお願いします。

これが自分のもので、あれは他人のものという感覚が、

曖昧になりがちだと、自分が何かがわからなくなるという話しなのですが、

すっごい視点をあげれば、

非二元的に、「自分はない」とかってなってしまうのでしょうけれども、

そんなに視点をあげる必要が日常であるでしょうか。爆

それ必要でしょうか。爆爆

日本人が非二元が好きなのは、

子供の頃に「みんなに貸してあげなさい」という教育から来ているように思います。

みんなに貸してあげなさいという、言外の意味は

「お前のものなどないのだ。

もともと全てはお前のものではないのだ」という事だと思います。

そう教育された人からすると、

「私はいない」とか「すべては無」とかって思うことが、

ラクになる道のような気がしてしまう。

何にも意味はなく、意味づけしているのは全て自分だから、

もともとは何もないのだと思うことで楽になろうとしてしまう。

私はない、が一番ラクな気がしてしまう。

私はこれは単なる赤ちゃん返りだと思っています。

胎内にいた時は、私たちは、これは自分のだとか、

これは他人のだとかいう意識はまるでなく、

全てが自分でありながら、全ては他人であった。

そこに差がなく、それでいて安全だった。

脳みそは、この安全さを覚えているのです。

自分がないときの安全さ。

これを覚えている。

そして生まれてきて、「自分」という存在に気付いたときの、

悲劇な感じも、脳は覚えているのです。笑

みじめな自分。小さい自分。なのもできない自分。

人に否定される自分。

しかし、私たちの人生は、「自分」を感じたところから始まったのですよ!!!

ですから、どんなに自分が自分をみじめと感じようと、

小さいと感じようと、

無力と感じようと、

とにかく人生はこの「自分」という感覚から始まったことを自覚し、

この「自分」という感覚をしっかり握って、前に進もうではないか!と思うのです。

「わたくし」といったの。

ときどき、こうして「わたくし」といわないと、

自分がいなくなってしまいそうで。。

というような感じのセリフが、野田秀樹のお芝居でありましたね。

(うる覚えで書いているので、ちょっと違うかもです。)

そう「わたくし」と言ってほしい。

自分を呼んでほしい。

私が無いときは世界は始まっていません。

私が存在して、初めて世界は存在するのです。

世界の中心で自分の名まえを叫ぼうではないか!と思うのです。

その時、初めて世界は原色に輝くのだと思うのです。

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