2021年9月9日に母が亡くなりました。
2015年から、圧迫骨折をしたり、ちょっと認知機能が落ちてきたりで、
介護をしていました。
2015年、2016年は、週の半分を私の家にいて、
週の半分を母の自宅で過ごすという生活。
車で30分の距離、往復一時間の送迎を、週に2回とか3回とか。
その時はあまり大変と思ってなかったけれども、
今考えるとよくやってたなと思います。
自宅に戻すと、電話かかってきて、
「ここにいられないからそっちに行きたい」と言い、
こっちに来ると、「自宅に帰りたい」と言い、
言われるままに、私の家と自宅を往復させていました。
そんな往復の途中で、母とUFOをみたこともありました。(懐)
その時の記事はこちら。
https://galaxyclass7.com/blog/2015/11/19/post-1966/
この頃、認知機能も落ちてきていて、
電話をしてくるのは良いけれども、
電話の受話器がきちんと元に戻せず、
電話を切れないんですね。
電話が切れないと、
今度、こちらが電話しても電話が通じません。
携帯電話に電話しても、充電されてなかったり、上手く取れなかったり。
常に私が見張ってないとならないような状態でした。
ある時は、自転車が無くなった!盗まれた!と騒いで、
結局スーパーの前に止めてあったこともありました。
認知機能は落ちてくると、本人は一生懸命なのだけれども、
じわじわと周りに迷惑をかけていきます。
テレビがつかない、電気がつかない、エアコンがつかない、
その度に近所の電気屋さんに駆け込んで、
電気屋さんにきてもらい、テレビをつけてもらったり、
エアコンをつけてもらったり。。。
ついに電気屋さんから、
うちに「うちはヘルパーさんではないので、
いちいちうちに来るのやめてください」と電話がありました。笑
はぁ、、申し訳ございません。。。
2017年に自宅にいた時によろけて、大腿骨骨折をしてしまい、
ここで私は決心して、
施設に入れることを選択しました。
しかし、この施設に入ってからがまた大変でした。
携帯電話が命だった母は、携帯電話を絶対に手放さず、
私の携帯に、鬼電してきます。
ヒプノのセッションが終わって、携帯電話を見ると、
着信が30件とかとかとか。
こちらから電話すると、
「とにかくここにいられないから、出してくれ」と。
気晴らしに買い物に連れて行ったりしますが、
そんなもので満足できる人ではありません。w
でも、私が気を揉むのを他所に、
母は母で楽しくやっていたのだと思います。
施設のお兄さんが大好きで、
最後までそのお兄さんの事を語ってました。
でも施設の別の人からは、
谷原さんがいると、
一人のヘルパーさんが谷原さんにかかりっきりになってしまうので、
すごく大変なんですけど、って。
はぁ、、申し訳ございません。
そう言われても、私にはなす術もありませんでした。
2019年に施設の中でもう一度転んでしまい、
完全に車いすになったので、
私は母を自宅で介護することを決意!!
車いすなので、私が買い物に行ったり、ちょっと目を離したりしても、
転んだりする可能性がなくなったからです。
自宅介護は、
朝起きたら、おむつをかえ、ご飯を食べさせ、着替えさせ、
やることは子育てと同じです。
でも子育てと違うのは、
だんだん良くなるとかできることが増えていくわけではなく、、
だんだんできることが減っていく。
つまり、介護の量がだんだん増えていくという感じ。。。
介護におけるメンタルって難しいって思いました。
どういう心持ちでいたらいいか、よくわからないのです。
でも、ずっと続くわけではありませんでした。
2015年からの6年間、
終末期の6年間はそんな母でしたが、
元々は、活動的で、多動的で、
いつも楽しいこと楽しめることを探していて、
喜怒哀楽がはっきりしてて、
母がいるとパーっと周りが明るくなる、そんな存在でした。
派手で、綺麗で、チャーミングで、
子供と孫を大切にしてくれる人でした。
2018年ごろってことは、今から3年前、81歳のときの母ですね。
母が亡くなって、思うのは、
きっとこれは子育ても同じだけれども、
家族に手を焼いている時が実は華なんだなって思います。
手を焼いてる時は大変なんだけれども、
無くなってしまったら、もうそれは二度と戻らない時だったって思う。
子育ても同じだけれども、
大変な時って、実はいっとき。
そしてその大変な時こそ、華なんだなって思います。
宮﨑駿が、
「めんどくさい、めんどくさい、
あー!めんどくさい!!
けれどもこのめんどくさいことが一番大切なこと」
って言ってたけれども、
これはあらゆることに言えることかな、と思います。
母の介護、本当にめんどくさかった。
そして、一番大切なことだったのだと思う。