私は「鵜飼の鵜」の話しが、とても興味深く、
ずっと心に温めてきた。
それを聞いたのは多分20年以上前のことだ。
父から教わった。
「鵜飼の鵜」の話とはこうだ。
鵜飼の鵜は、
例えば10匹で漁にでるとしたら、
2匹はよく働き、6匹は普通に働き、残りの2匹は働かない。
どのグループもそのような割合で働くのと働かないのがでる。
ではよく働く2匹を他のグループから集めてくれば、全員が良く働くのではないか。
否。
よく働く鵜を10匹集めてきても、
2匹はよく働き、6匹は普通に働き、残りの2匹は働かないのだ。
「おもしろいだろう?不思議だね?」と父は私に言った。
私はエラク感心して、ああ、世の中はそんな風にできているんだなと思った。
こうした現象は自然界ではとてもよくみられる。
働き蟻というが、蟻も働くのと働かないのがいる。
自然に近い幼児なども幼稚園でお片付けするように言うと、
よくお片付けして働く幼児と、そうでない幼児が必ず出る。
私はこの現象がおこる理由は
全員が同じ方向を向いて同じことをしたら、
危険だからだと思った。
なにかそこで天災でもおきたとき、
全員が何かに夢中になっていたら、
その異変に気づくものがいない。
また、何かあった時に、力を温存している人がいなかったら、
そのグループは全滅してしまう。
だから、働かない人が必要なのだと、
それは神の見えざる手のようなものだと思っていた。
社会の中にも、全員が馬車馬のように働いたら多分困るのだ。
必ず、働かない人が必要で、
そうした人が存在するおかげで、社会は安定している。
本当は意識のレベルで互いに貢献しているのだ。
だが、昔は大家族だったりしたものだから、
働かない人が家族に一人や二人いても問題なかったかもしれないのに、
いまは核家族化し、一人で暮らす人もふえ、
「働かない」という選択をすることが容易ではなくなった。
本当はそういう人が社会に、世界に必要なのに、
その事は知られていない。
今は全員が働かないとならない風だ。
それは非常にせちがない。
生活保護を受け取ってる人がけしからんと言っている人がいるが、
そんなことはない。
多少元気でも、働かずに生活保護を受け取る人がいてもいいのだ。
そういう人が、見えないエネルギー領域でどれだけの貢献をしているかわからない。
そうした人がいるおかげで、バリバリ働ける人がいる。
しかし、けしからんという人は、たいていは鵜飼の鵜でいう中間層の6匹の中にいる人達だと思う。
私の友人の河童先生は言っていた。天才のようなひらめきで語っていたが、
この6匹に値するこの中間層は出口がないんだ、と。
上の二匹と下の二匹は入れ替わることができる。
確かにそうだ。
3年寝太郎も3年寝てた人こそが、村の危機を救う。
成功者などでも、子供のころは劣等生でどうしようもなかった、
などという話は良くある話だ。
上と下はいつでも入れ替わる。
しかし中間の6匹になったら、出口はない。
そこから抜け出し自由になるには、一度下の層に落ちなければならない。
確かにそうかも。
しかし、なんかもっと飛び道具はないのか。
まず、第一に、
どうして自己はいつでも私なのだ。
私はいつから私なのだろう。
この法則からでるには、
この法則全体を仕切ってるその存在になることはできないのか。
もともと、この法則は、そのグループ全体を見ている何かが、
そういう割合で働く人と働かない人を作ったのであって、
働く人が偉いわけでも、働かない人が愚かなわけでもない。
全体にとって、その割合で互いを労わることが、
バランスであり、
全体の貢献になったはずだ。
しかし、今、人は、全体の視点はない。
「人は自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから」
これは聖フランシスコの祈りの一節だ。
自分がいつから自分なのか。
この上にもっと大きく自分だと思ってる自分が存在するのではないか。
自分をすてて死ぬ。
その時にもっと大きな自分にリアルに私たちは出会えるのではないか。
想像でも、空想でもなく、それは存在しているのではないか。
鵜飼の鵜の法則は2・6・2の法則と大嶋さんが最近名付けているらしい。
法則は法則でしかない。
私が興味あるのは、
この法則を法則たらしめている存在がいる、ということだ。
宇多田ヒカルは歌う。
「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ。」
泣いてるあの子と願いがかなう誰か。そこには暗い断絶の川があるのか。
本当だろうか。
大嶋さんも宇多田ヒカルも、そういう法則があると言いつつ、
その法則から自分だけが抜け出る方法は言いながら、
法則を法則たらしめている存在については言及しない。
どんなに上層階にいっても、この法則はつづくのだろうか。
自分の内に外に、永遠につづくのだろうか。
鳥が全体で一つの鳥を作るとき、
その全体の鳥を作っている鳥は、
どんな鳥なのだろう。。
自分を捨てて死んだ先にある自分とは、どの自分なのだ。
すくなくとも、この自分ではない。
この自分ではない。
そして、思うのだ。
成功というのは、10匹の鵜全部が幸せであって初めて成功なのであって、
その働く2匹がすべてを牛耳ることではない。
働く2匹は、残りの8匹に奉仕する存在であり、
自己を捨てて死ぬ存在である。
残りの8はその目撃者であり、
同じく自己を捨てて死ぬ存在だ。
その時初めて、鵜の10匹は
全員で次の次元に進むのだ。
そう、全員で次の次元に進むのだ。