和声にでちゃうんんだという話なんですが、
噛み砕いて言うならばそれは、
じゃーんってひいたときに、どの音を使うかっていうことなんですけど、
その時にシの音が入るか入らないかとか、ファの音が入るか入らないかとかで、
ぜんぜん和音の響きのオーラが変わってくるわけですね。
私とか弾いてて、うわーって感動するのは、シューマンとかだったりするんです。
この温かい響き・・ それはシューマンの心の厚みとか深みを示してる気がします。
繊細な心の動きとか、発見力とか、感情が熟達した感じがするんですね。
ショパンはシューマンほど暖かくないです。もっとクールなんですね。
でもシューマンはショパンみたく構成力がないんです。
ショパンは長い曲を作っても、始まりから終わりまで計算尽くされた物語の展開をしていきます。
でもシューマンはそうした計算はできないのですよ。
なのでシューマンは曲が長くなればなるほど、なんだか構成力の弱さが目立ってきて、
なんか疲れるんですが・・みたくなってきます。爆
聴いてて疲れるし、弾いててもなんか疲れてきます。
なので、シューマンはちょっと小曲の集まったようなもののが素晴らしい感じがします。
交響的練習曲とか、子供の情景とか、そうした小品集のが素敵です。
幻想曲とか最初のモチーフはとても素敵で素晴らしいですが、
きっとショパンならこれほどのモチーフを思いついたならば、
非常に効果的に曲の中にちりばめながら、ドラマチックに終りまで持っていくでしょう。
しかし、シューマンはちょっと、そういう構成力はショパンにかなわない。
こういう構成力というのは、なにも作曲家にだけ求められるわけではなくて、
演奏者にも求められるものです。
構成力が演奏者にないと、ただ弾いた・・という風になります。笑
いくらシューマンがショパンほどの構成力がないとかいっても、
もし演奏者に素晴らしい構成力があれば、
それは充分に聴きごたえが出来てきます。
曲の全体を見据えながら展開を狙いながら、
演奏していく、
それは、名演説とか言われるようなものにも、
この構成力みたいなものが見えますね。
少しずつ、少しずつボルテージを上げながら、
クライマックスへと向かう力、
なかなか難しいものがありますよ。それ。
シューマンの幻想曲などは、
「そんな計算なんかないんだ!!」と訴えています。(ほんとか。爆)
「俺は最初から飛ぶんだ!」と言っています。
そして、シューマンは後先考えずに飛ぶのです。
ショパンならば、お客さんを飛ばすのに、
「こうでね」、「ああでね」、「だからね」、「それでね」、
と少しずつ説得しながら、それでも最後は強引にでも飛ばします。
しかし、シューマンにはそんな説得する余裕はありません。
「俺は飛ぶんだ!!」と。
「後の事は知らない!!」と。
そうシューマンは言っています。
そして「あとの事は知らないかもね、これは」 というような曲構成になっていくのです。
シューマン幻想曲↑byキーシン
キーシンもだんだんおじさんになってきて、
キーシンくらい若いときからピアニストとして君臨してしまうと、
他になにもできなくて、なんか可哀相みたいな気がしちゃうのは、
私の勝手な幻想でしょうか。
小林愛美さんとかもですが、
なんかもう3歳とか、5歳とかから注目された人は、
色々大変ですよね。
私だったら、もう30歳くらいになったら、
別の人生送りたくなる気がしたりします。
若い時のこのキーシンのキラキラした感じは、今は感じられません。
今はむりやり感動しようと必死な感じがしてしまいます。
演奏は素晴らしいですが、本人の心はあまり踊ってないのが見えてしまうんですね。
ドキュメンタリー映画ができたころはまだまだキラキラしていました。
それは2004年に発売されていますから、
その頃はまだキラキラしてたんですけどね。
どっからか、なんか雰囲気が重たくなってきました。
しかし、ショスタコービッチのこのふざけたみたいな曲はいつ聴いても面白いですね。