昨日は、禁止されれば必ずそれをやる、それが幼児!という話しを書きました。
昨日の記事
こんなことを書くと、
「じゃぁ、子供に指示とかしなければいいんですね?」といって、
子供を本格的に放置する人とかいますが、
それもダメなんです。
子供が欲しいのは親の注目なんですね。
この、自分を見てる感、話しを聞いてくれている感、
それがないと、子供は暴れます。笑
なぜ、禁止されたら、必ずそれをやろうとするか。。
簡単です。
自分を見てほしいからです。
その禁止された事柄は、
「どうやら、そこにオカンのなんか大事ななんかがあるらしい。」
「オカンの非常に興味を引くなにかがあるらしい。」
と子供は無意識で思っています。
そして、その関心を引き出したくて、
オカンがその事柄に対しての異様な態度と、
いつもと違う匂いに対して、
子供は反応しているんです。
どうやら、ここに自分に関心を向ける、宝の山があるに違いない、
と思うわけですね。
鶴の恩返しの「けっしてここを覗いてはいけません。」とか、
浦島太郎の「この玉手箱を開けてはいけません。」とか、
そこに何か特殊何かがあるという、匂いがしますよね。
そして、その特殊性に気を取られているのは顕在意識ですが、
無意識では、
その奥に、「あなたの気を引きたいです♪」という単純な心理が隠されています。
そこに相手の念のような塊を感じ、
そこに触れれば、相手が充分に自分に気を取られるだろうという、
非常に単純な心理が隠れています。
アダムとイブも同じです。
他にいくらでも実はありますから、
別にその実を食べる必要はなかったのです。
しかし、なぜその実を食べたか。
それは神様の気を引くためです。
なぜ気を引かないとならないのか。
神様はそんなことをしなくても、
間違いなくアダムとイブを見ています。
しかし、アダムとイブにはそれがわからない。
親は間違いなく子供を見ています。
しかし子供にはそれがわからない。
子供には、「本当に自分を見ているのか」と確認しないと、
動かないプログラムがあるのだろう、とわたしは感じています。
それは物理学でいう量子が、
人間が見ていると感じた瞬間に姿を変えるように、
それと同じように、
子供は、親が自分をみていると確認できた時に、
それが子供の目から納得できる量に達したときに、
子供は何か姿を変えるのだと思います。
量子の世界では、人の目視を確認できると、量子本来の姿になるわけですが、
子供もおそらく、目視を確認できると、魂の本来の姿になるのだと思います。
つまり、
どうしても、どうやってでも、
自分を見てくれているという確認がとれないと、
動かないプログラムがあるような気がします。
この心理をわがままで傲慢と決めつけてしまい、
強制し抑圧しようとすると、
何もかもが上手くいかなくなります。
つまり、禁じられていることを次々する、という態度にでるわけです。
あらゆる手段を使って、
病気になったり、非行に走ったりしながら、
何かわからない者の気を全力で引くことに
人生をかけてしまう。
子供は、
「もし自分が大人のいう事を一回で聞いてしまったら、
もう自分に関心を向けてもらえなくなるだろう」
と感じています。
また、同じところでミスすれば、きっとまた何か言ってもらえます。
だから、また同じところでミスします。
すると、親に激怒されたりします。笑
でも、激怒されてでも、
どうしても欲しい確認がある。
「自分をみているか?」という確認です。
なので、子供が同じところで何度もミスする時は、
親が自分を見ているかどうかの確認作業を子供はしています。
もし、親の立場で、同じミスを犯してもらいたくないのであれば、
ミスしてないときにこそ、充分な関心を示すべきです。
褒めるとかではなくて、
関心を持つということ。
そしてミスしてる時は、関心をもたない。
これ、自分の心理を手なずける時も同じなのです。
いちいちミスして罪悪感を感じているとき、
それは、自分のインチャが自分を見てくれと言っているサインです。
ミスしてない時にこそ、自分に充分な関心を払うべきです。