昨日の松村先生の雑記にビジョンを見るのには「触覚的な要素を借りているから」と書いてあった。そんなことは思ったことがなかったので、なるほどと思った。
私は記憶にある限り、4歳ごろからずっと毎日のようにビジョンを見る訓練をしていた。
前にもブログに書いたのだが、夜にお布団に入ると目を閉じて、まずは自分が着ている服を思い描いた。ありありとまるで目でみるかの如く思い描いていく訓練をするのだ。何故かいつもヨーロッパ調の刺繍の入った服である。必ずと言っていいほど左の袖から見ていき、そうして肩、首回り、上半身全体の服の様子、それから下半身、足の先まで見ていって、最後に全体が見渡せるように、全部が一気に見れなくてはいけない。それができないと、もう一度、左の袖からやり直すのだ。 すごく神経にさわる訓練だった。何度となくイライラして、寝ながらじたばたした記憶がある。 一つのイメージができたら、それを保持しながら、次のイメージをつくらなくてはならないので、異様な精神力というか、集中力がいる作業だった。
しかし、慣れてくれば服や家具などは比較的に楽で、難しくはない。 難しいのは人の顔だった。人の顔は固定化していない。感情によって表情が変わる。横向きの印象と、正面との印象がまるで違う人も多々いる。目で見たこともない人の顔を立体的にあらゆる状況で、表情そのものをイメージするのは難しかった。 あまり近視眼的にイメージをつくると全体が見れないことも多い。口の形はわかるのに、顔全体の雰囲気がイメージできないとか。どうしてもマンガのような二次元的な顔しか見れないとかもあった。
それは、あまりにイライラして、時に寝床の近くにあったものを壁にぶつけたりした。
今思えば、人の顔というのは、物質でありながらも霊体であるから、その様を頭の中に描ききる、まるで目で見たかのように。。というのはとても難しい作業だったと思う。目で見えてない部分が沢山ありすぎて、目ではないところで感知していることがありすぎて、それをイメージしきるというのは難しいことだと思う。
自分でイメージに入るときには、受動的に物体や人物の波動を受け取るのではなく、積極的にそれらの波動をイメージ化しなくてはならないので、非常に客観的かつ、的確な視点が必要になる。
人の顔といった場合、その目では見れない部分、霊体としての部分を、的確に客観的にイメージ化するというのは、とても高度だ。しかし私は小さなころから、それに挑んで止まなかった。
なぜ、そのような奇妙な訓練を日々していたのか、理由は全く分からない。ただ、時にイライラはしたけれども、大体は楽しい時間だったのだ。
この作業はつい最近まで毎日のように行っていた。やらなくなったのは、ほんのつい最近からなのだ。今はクライエント様のビジョン視に一緒にはいることでそのエネルギーは昇華されてしまうらしく、自分のビジョンにどっぷり入ることが少なくなった。
7月23日、昨日の松村先生の雑記
私が思うのは、大切なのは自ら積極的にビジョンをみる領域に入ることではないか、と思うのだ。自分で作ってはいけないと思う必要はない。おそらくその触覚をエーテル体に差し替えるには、最初は自分で積極的に作り上げた妄想の世界に飛び込まなくては無理だと思う。最初は苦労しても、その世界に入った時の鮮やかさと面白さは格別だと思う。私はそこで、見たことも聞いたこともない話を聞き、体験するのだ。昨日は中国へ行き、今日はヒマラヤを登るといった感じだ。そこでの情感を感じられるようになると、そのエーテル体的な触覚が生まれてくるのではないだろうか。触る感覚。。それはヒプノ体験をするときに、より意識していい感覚なのかもしれない。見ろ、見ろ、と言われてもなかなか難しい場合は「触ってください」がいいのだろう。
時々、ずっと触り続けている人がいる。ヒプノでは視覚派、聴覚派、体感覚派、などと言って、どの感覚でビジョンをみているか、といった分類わけなどをよくされるのだが、体感覚派の人はずっと映像を触り続けている。
ヒプノを受けている間中、手がずっと動き続けていて、触りながらビジョンを体感していく人がいる。
こういう人は、亡くなる場面が凄い。本当に苦しみながら亡くなる場面を体験していくからだ。「頭が割れるように痛いです。」 とか、「胸が苦しい」といってせき込んだりする。そうして死を追体験していく。
これは本当に触覚などの感覚がエーテル体に移行しているのだと思う。
いずれにしても、ビジョンを見たい、体験したいと思ったら、自ら積極的にビジョンを作り出していくことが必要だ。
妄想と思われる領域に、まずは飛び込まなくてはいけない。
そして、あるとき知るのだ。
これは妄想ではなかった、と。
それは或る日、或る時、確信をもって知るのである。