日本人独特の、空気読め病がある。
みんなの気持ちを考えろ病ともいえる。
おそらく、こんなことは中国人とかは思わないかもしれなくて、
でも日本人はまじめに、電車の中では携帯での通話はしないとか、
「みんなに迷惑だから」という車内アナウンスに、
すっかり洗脳され、そうだと思い込んでいて、
それを守るのがこの車内の空気を読むことのように思われている。
たしかに、人が集まって何かするとか、仕事するとか、遊ぶとか、
色々な場面で、出過ぎない、みたいなことは大切な場合もあるのだが、
多くの人は、この時に、自分の思考をやめてしまい、
この集団の中ではどういう行動をとるのが最適か、のような思考で考えているから、
自分の感情や感覚や思考は全く無視で、
つまり自分自身には嘘をついて、
他人に気を使う。
こうしたことは、日常の中で常日頃行われているのが現状だ。
こういう日本人にとって、
自分軸を取り戻すというのは、
一見、躊躇があるかもしれない。
自分軸を取り戻しましょう!というのは、
そうした、みんなの気持ちとか、
場の空気とかを考えて行動することがだめで、
我がままに行動することなのかな?と思う人もいるかもしれない。
自分の軸を取り戻して、
自分の感情に従え!とか、
自分の感覚を信じろ!とか、
それは場の空気なんか、無視で、
自分のやりたい放題にやることなのかな?と
思わせるものがある。
だが、自分軸というのは、そうした我がままな行動とかとは全く違うのだ。
ここで、自分軸をもった人の人との交流とはどういうものか
書いてみたい。
自分軸を持たないで、自分の主張をすると、
大抵、それは、他人に自己中心的でわがままだと思われる。
集団の中で、みんなの気持ちなど感じもせずに、
自分はこうしたいです!!と主張することは、
それは自分軸を持っているかのようにみえて、
そうではない。
他人に自分の主張を聞くように強要している限り、
それは他人の力を使っている。
他人に依存しているのだ。
だから、わがまま、と思われるのだ。
でも自分軸を持った人は、
自分のやりたくないことは、静かに断るだろうし、
やれることは精一杯やるだろうし、
自分の主張が通るように、
他人に強要したりはしないだろう。
基本、自分でやってしまうはずだ。
だから自分軸を持った人は、
人に嫌な印象はそれほど与えない。
場の空気が読めないというのは、
ほぼ、他人に依存しているから、場を乱すのだ。
他人に我慢することを強要している時点で
他人に依存しているのである。
無意識の中に、
他人が自分の面倒みるのが普通、
という自己決定があると、
どこに行っても、自分の軸を他人に預けてしまう。
自分を楽しくさせてくれるのは、他人だし、
自分を良くしてくれるのも、他人だし、
自分を気分良くさせてくれるのも、他人だし、
自分を気分悪くさせるのも、他人だし、
すべて他人、、という事になってしまう。
そして、そのうえで、
自己主張をすると、
主張したその意見の面倒を見るのも他人ということになる。
こうなると、何が何だかわからない。
自己主張しておきながら、
その面倒を他人がみるという。
こういうのが依存というものだ。
どこのだれが何をしたいのか、ごちゃごちゃで
現実は混乱するばかりである。
自分軸がある場合は、
自分の主張をするのは、当たり前なのだが、
でも、それは他人の活動を乱さない。
自分の世界で、その主張を通していくのだ。
自分の自己実現の中で、その主張を通すのだ。
自分の気分を良くするのは、自分だし、
自分の面倒をみるのも、自分だ。
ここが、自己中なのか、自分軸なのか、の違いだ。
「誰になんと言われようと自分を信じる!」とか、
一見、凄い自分軸があるかのように見えるが、
それは自分の世界、自分の人生で実現するべきことで、
もし、それが家族や仲間の中での発言ならば、
それは他人に依存している。
その発言の真意は「他人に、わたしを認めよ」といってるのである。
それはとても他人に依存しているのだ。
自分軸を持った人ならば、
そんなことは家族や仲間の中では言わないのだ。
なぜなら、それは、「他人に自分を認めよ」と依存する言葉だからだ。
そんなことは言わずに、
そして、自分の自己実現に向かって、
着々と進むだろう。
よくよく、こういう話しはある。
「〇〇したいけど、親が認めてくれません。」
「旦那が認めてくれません。」
え、それって、家族や仲間が認める必要があるんですか?
「認めてくれない」と思ってる時点で、
他人に軸を渡してしまっているし、
そんな軸ではやっても無理だ。
これが、我がままなのか、自分軸なのか、の違いである。
自分軸を持つと、とてもわがままで、
みんなに迷惑をかけると思うかもしれないが、
そういう事とは全く違うのである。