おはようございます。
本当に最近つくづく思うのですが、
物事には階層があるなと思うのです。
この階層が理解できないと、あらゆる事が理解できなくなります。
ヨガ・スクールで、カースト制度の話が出てきました。
カースト制度はインド人を苦しめる悪しき制度のように感じますが、
これを精神の発達段階と考えると良いのかなと思いました。
バラモン(僧侶)
クシャトリア(軍人)
ヴァイシャ(商人)
スードラ(労働者)
私はこれを谷原が考えた人生の季節と対応できるなーと思いました。
バラモン(僧侶) = 世界と自分の季節
クシャトリア(軍人) = 道と自分の季節
ヴァイシャ(商人) = 飯と自分の季節
スードラ(労働者) = 親と自分の季節
スードラの「親と自分の季節」にいると、
自分の軸を持っていません。
人に使われるか、親の価値観に支配されているかしています。
自分の太陽を輝かせる位置におらず、他人に使われている状態。奴隷です。
(注意: この季節は誰もが通る季節なので、差別や自己卑下しないでください。
誰もが通る季節であり、ここが土台であり、決して避けて通れない季節なのです。)
ヴァイシャは商人です。これは「飯と自分の季節」にあたります。
商人ですから、自分で何かを作ったり、仕入れたりしたものを、人に売ります。
自分が自分の力で生活を始めるために、売り込む。お金を得る。そして飯を食う。
これをしっかりできるようになるには、自分の太陽を輝かせる事が必要です。
太陽がしっかり輝いて、一人で生活できるようになると、
クシャトリア(軍人) = 道と自分の季節に突入します。
軍人は自分のために生きていません。
国のために生きています。
でも、それは自己犠牲とは違うのです。
自己犠牲という漢字をみてください。自己を犠牲です。
このときの視点は自己にある。軍人の視点は自己にはないのです。
国こそが自分なのです。
つまり自己が拡大しています。
これが道と自分の季節です。
その道こそが自分という季節。
昨日、たなだ先生がこんな文章をUPしていました。
「誰かを救いたい」「誰かの力になりたい」と思う人こそ、一番助けを必要としています。
これは、一見するととても矛盾するんです。
クシャトリアの軍人は、誰かを救いたいとか、誰かの力になりたいとは思ってないんです。
もっと透明な存在なんですね。
この「誰かの力になりたい」は自己価値が低くて思っている場合がほとんどなのです。
自分の中のセルフイメージが低すぎて、
誰かを助けさえすれば、セルフイメージがあがるような気持ちになっているのです。
ここに、階層の視点をいれると、綺麗にわかると思います。
この話はまた明日。
アディオス! アスタマニャーニャ!
谷原の考える人生の季節についての記述はこちら。